大性寺について

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岐阜県山県市掛にある

光明山 大性寺は、浄土真宗本願寺派に所属する寺院です。

開創について
開山は、牧野 佐右エ門道保 南北朝時代初期に
天台宗に帰依して法名を専定といい、大性寺の前身である天台宗の天性寺を現在の場所に建てたのが開創であると伝えられています。
後に専定が、日蓮宗の教義に陥って、延元 暦応の頃(1336~1340年頃)に西国に行脚修業をしたのち、京都常楽寺の住職 存覚上人悟一によって、改転せしめられた。
存覚は、浄土真宗の宗祖 親鸞のひ孫にあたり、「存覚上人一期記」にも、専定が、存覚により、改転せしめ、一転して、浄土真宗を信じて、宗祖親鸞上人の御染筆一軸を受けたことが記録されています。
(明治25年に提出されている寺籍調査書には、宝物として、宗祖大師真筆一軸として記されているが、現存はしていない)

江戸時代に入って宗門改めという江戸幕府の政策により、信徒らの要望に応えて、大性寺として確立された。
江戸時代後期から明治時代には、十二世で、勧学となった大周がいる

以下の記載はデジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説より引用

文化5年生まれ。美濃(みの)(岐阜県)浄土真宗本願寺派大性寺の住持。義諦(ぎたい),性海(しょうかい),行照に仏典を,杳旭(ようきょく)に宗学をまなぶ。慶応3年勧学となる。明治16年5月25日死去。76歳。美濃出身。字(あざな)は泡影。号は竹谷